28 日(土)の「SWITCHインタビュー 達人達(たち)」にゲームクリエイターである【シブサワ・コウ】さんが漫画家の原泰久さんと共に出演されます!
漫画家とゲームクリエイターのお二人は、歴史をテーマに取り上げ作品を作り出しています。昔はゲームが好きでしたが最近ゲームをしていないので、全く存じ上げない【シブサワ・コウ】さんについて今回は調べてみようと思います。
目次
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シブサワ・コウ、本名や学歴、経歴は?
本名:襟川 陽一(えりかわ よういち)
生年月日:1950年10月26日(65歳)
身長:185cm
本名は襟川陽一さんとおっしゃるんですね。シブサワ・コウという名前は襟川陽一さんが尊敬する幕末の官僚で実業家、多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」ともいわれる渋沢栄一さんと、前社名の光栄からとったようです。襟川陽一さんのペンネーム、クリエイターネームとして使われているようです。今回の番組でもシブサワ・コウという名前が使われていますね。
65歳とまだまだお若いんですね。お顔を拝見すると、なんとなく芸術家っぽく見えます。髪型のせいでしょうか、クリエイターなので個性的な方なのかなって思いました。
シブサワ・コウさんが育った、足利市は染色や縫製といった、繊維分野で栄えた地域で、シブサワ・コウさんのご実家の家業も、染料の販売会社をしていたようです。お祖父様が立ち上げた会社で、お父様が二代目として経営にあたっており、シブサワ・コウさんは長男であったため将来はこの家業を継ぐんだろうなと思っていたようです。染料や繊維業の会社を親がやっている同級生が多かったようで、自然とそのような考えになっていったんだろうと思います。
進む学校も、将来のことを考えて決めていたようで、高校は地元の進学校である栃木県立足利高校に進まれました。そしてやはり将来経営者になるなら大学も商学部か経済学部に進学を考え、早稲田大学と慶應義塾大学を受験したようです。結果、早稲田大学は不合格になり慶應義塾大学は合格、高校卒業し東京に上京されました。
下宿を大学の近くの日吉でしていたようですが、その大家さんの娘さんが現在の奥様である「襟川恵子」さんです。すごい出会いですよね。大学進学のために出てきて東京で運命の出会いが待っていたんですね。恵子さんとは、シブサワ・コウさんが24歳の時にご結婚されています。
大学時代は音楽サークルに所属し、学業はそれほどだったようです(笑)なんとか卒業され、家業を継ぐためにまずはご実家の会社の取引先である化学品専門商社に就職し、大阪と東京で営業職として働かれたようです。これが世の中を見る修行になったのでしょうね。この会社に4年半勤めた頃、お父様から連絡がありご実家の会社に入社されたようです。
しかし戻ってきて3ヶ月でなんとそのお父様の会社が倒産してしまいます。驚きですよね!戻ってきて3ヶ月、自分が将来継ぐだろうと思っていた会社が倒産してしまうなんて。その後、28歳の時シブサワ・コウさんはお父様への対抗心からと話されていますが、「光栄」という名の染料卸販売業の会社を設立しました。
その会社の事業もうまくいかず、自分お給料も出せないほどだったようです。それでもやめようとは思わなかったそうですので、強い精神力をお持ちなんだと思います。そして負けず嫌いなんでしょうね。悩んで色々勉強しているうちに、本屋でマイコンの本が目に止まり、プログラミングを覚えれば、財務管理や販売管理を効率化するソフトができるんじゃないかと考え、奥様にマイコンが欲しいと相談したそうです。そしてなんと1980年、シブサワ・コウさん30歳の誕生日に奥様が、ずっと欲しがっていたシャープの「MZ-80C」(27万8000円)をプレゼントしてくれたのです!
奥様!お金持ち!今でも高額なその価格ですが、当時の価値はもっとしていたでしょう。シブサワ・コウさんの熱意が伝わったんですね。その後は、プログラミングを覚えるのに没頭し、業務の効率化を図ったようです。
シブサワ・コウ、信長の野望が出来るまで
奥様に、高額のマイコンを買ってもらい染料の会社の効率・業績アップに力を入れ始めたシブサワ・コウさんですが、仕事以外の時間、夜に趣味でゲーム作りに没頭していたようです!はじめは簡単なゲームでしたが、だんだんと30歳の自分が楽しめるゲームを作ったら面白いんじゃないかと、シュミレーションを作るようになったそうです。プログラミングとか難しくて私はわかりませんが、シブサワ・コウさんは多くを勉強してゲームを作ってみようと思われたんでしょうね。
試行錯誤しながら完成したのが、上杉謙信と武田信玄を闘わせるシミュレーションゲーム「川中島の合戦」だったそうです。その後は本業の染料会社の経営は厳しかったですが、経営を助けるソフトを知り合いの会社に提供し評判を得たりしていました。そして少しでも売上の足しになればと、「川中島の合戦」の広告を月刊マイコンという雑誌に掲載、1本3,800円で売り出しました。10本くらい売れるかなと思っていたようですが、予想を超える数の注文があり、全国に広がっていきました。
趣味から生まれた作品が、日本中で人気になるってすごいですよね。その後染料会社からゲームソフト制作会社に完全に移行しました。1983年には任天堂がファミリーコンピューターを発売し、家庭でゲームができる時代が到来します。その年には徹夜続きで完成させた「信長の野望」をリリースします。この作品は記録的な大ヒットとなり、歴史シュミレーションというジャンルを確立しました。
1980年に奥様に買ってもらったマイコン、その勉強をしてからわずか3年で「信長の野望」リリースってすごいですよね。染料会社から全く違うゲームソフト会社となりヒット作を作り上げ、わずか3年で生活が一変されたと思います。
コンピューター業界がすごいスピートで変化していた時代だったんですね。シブサワ・コウさんは先見の明と努力と奥様の愛があったので、その変化について行けたのだと思います。本当に、すごい時代だったんですね。
2009年 4月 – テクモ株式会社と経営統合を行い、コーエーテクモホールディングス株式会社を設立され、現在シブサワ・コウさんは株式会社コーエーテクモゲームスの代表取締役会長をされています。
シブサワ・コウさんの妻、娘さんについて、会社については次のページで!