病院勤務の医師はよく知っていますし、自分で病院を開業し務める開業医も知っていましたが、フリーの医師がいるというのは考えた事もありませんでした。

19日(木)に放送される「カンブリア宮殿」でフリーの眼科医である【服部匡志】さんが出演されます。服部匡志さんは日本のみならず、ベトナムでも精力的に活動しています。そこに、患者さんがいるからですね。

今日は服部匡志先生の事を調べてみたいと思います。

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服部匡志、学生時代の恩師は?学歴を紹介!

服部匡志

名前:服部 匡志(はっとり ただし)

出身地:大阪府

1964年生まれで51歳か52歳でしょうか。月日はわかりませんでしたが、まだ50代前半とお若いんですね。

服部匡志先生は特別裕福な家庭に育ったわけでもなく、ご両親が医師だったわけでもなく、ごく普通の生活をされて育ったようです。ご両親が医師だと、自分も医師になろうと思う事が当たり前になるのかもしれませんが、服部匡志先生のお父様は市役所に勤められており、その背をみて育ったのでその後を継ごうと考えていたそうです。

しかし、高校生の時、お父様が胃がんを患いその入院中に聞いてしまった医師からの言葉「82号室の人はもうすぐ死ぬのにうるさいやつだ」という心のない言葉を聞き、人間不信になってしまったようです。

こんな事をいう医師がいるなんて、信じられないですね。自分の家族でもそう思うのでしょうか。治療が事務的になったり、患者をお金としか考えられない医師もいるというのが、悲しいことですね。

その後服部匡志先生が高校2年生の時に、お父様がお亡くなりになり勉強も手につかず、人間不信も続いていたためお父様の49日の日に家出をしたそうです。行き先は北海道。そしてそこで人との触れ合いを通して、このままではダメだと思われたそうです。

何か社会の役に立つ人になれる仕事、お父様の事もあったので、医者になって同じような思いをしている人を助けたいという思いが強くなっていき、そのためには勉強が必要だと思い学校に戻りました。こう思えるまでに1ヶ月が経ち、学校に戻った時には勉強についていけなくなっていたそうです。学校名はわかりませんでしたが、進学校だったようです。その高校では生徒会長も勤めていたようですが、赤点ばかりとっていた生徒だったようで先生からも、浪人覚悟で医学部に行くように言われたそうです。

結局、4浪で京都府立医科大学医学部に入学されました。1浪の時には、1日14時間も机に向かい勉強していたそうです。努力し、実力が出せれば結果がついてくるんですね。でも、4浪している間は辛かったでしょうね。

京都府立医科大学

医学部6回生になると、各科からの勧誘?のようなものがあり専門の道を進んで行くようになるらしいのです。服部匡志先生は最初お父様のような病の方を治したいと消化器外科に行きたかったようですが、そんな時に運命の出会いが待っていました。全く行く気もなかった眼科の勧誘の食事会が焼肉であった事から参加し、そこで眼科の木下茂教授に出会い、眼科医になると決めます。当初はお母様も反対されていたようですが、木下茂教授がお母様も説得するという事がきっかけで、服部匡志先生はこの人についていくと決めたそうです。

これが人生の道を決める大きな出会いになったんですね。すごい。一番行きたくなかったと話される眼科に進むようになるとは(笑)服部先生自身も驚いたでしょうね。

木下茂教授

木下茂先生は1950年生まれの眼科医であり、京都府立医科大学眼科学教授、京都府立医科大学副学長を務めているようです。

  1968年 大阪府立天王寺高等学校卒業

  1974年 大阪大学医学部卒業

  1974年 大阪大学医学部付属病院眼科研修医

  1976年 財団法人住友病院眼科医員

  1978年 大阪大学医学部眼科学教室助手

  1979年 ハーバード大学眼科研究員

  1982年 大阪大学医学部眼科学教室助手復職

  1984年 大阪労災病院眼科部長

  1988年 大阪大学眼科学教室講師

  1992年 京都府立医科大学眼科学教室教授

                                   引用:木下茂 wikipedia

1992年までの経歴止まりにしておきました!すごい教授に出会ったんですね。しかも木下茂教授から眼科に誘われるなんて、やっぱりなにか持っていたんでしょうか。

服部匡志、眼科医としての日本での経歴は?

4浪して医学部に入学し、6年間しっかり勉強し1993年に京都府立医科大学医学部を卒業されました。

その後は同年京都府立医科大学眼科レジデント、1994年には大阪にある多根記念眼科病院勤務、1996年京都にある愛生会山科病院勤務、1997年熊本の出田眼科病院勤務、1998年には福岡の聖マリア病院、静岡の海谷眼科に勤務され経験を積まれたようです。

一つの病院だけでなく、多くの病院での勤務でたくさんの先輩方から多くのことを学ばれたんだと思います。尊敬できる先輩がいると、いろいろ聞くことができますし、テクニックを盗むこともできますからね。服部匡志先生自身は、日本の様々なところでの武者修行のようにこの期間のことを振り返っています。

多くの先生から学び、後輩にも教えることもできるようになった2011年10月さらなる転機が待っていました。京都での学会の懇親会でベトナムの先生に出会い、

「ベトナムでは多くの人が失明していて、日本の技術で救って欲しい」

と言われ、この言葉が脳裏から離れなくなったそうです。このことが日本を飛び出すきっかけとなったんですね。

服部匡志4

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